金山寺味噌とは
● 金山寺味噌とは
金山寺味噌とは和歌山県伝統のなめ味噌(嘗め味噌)です 。
中国から紀州の興国寺 (和歌山県由良町)に伝わった径山寺味噌(徑山寺味噌、きんざんじみそ)が由来となったもので、味噌汁に使う味噌と違い、金山寺味噌(きんざんじみそ)とは、米・大麦・大豆・なす・瓜・生姜・しそが入った自然発酵のおかず味噌(なめみそ)で、和歌山県では特産品として和歌山県推薦優良土産品に指定されています。
金山寺味噌は、調味料として使うのではなくそのまま食べることができる味噌で、元々は冬に食べる為に夏野菜を使って作った保存食で、その樽にたまった液体「溜まり」は日本の醤油の元祖と言われています。
● 金山寺味噌の歴史
金山寺味噌は、その名からも想像できるように、金山寺(正しくは鎮江府金山竜遊江寺)という中国の宋の時代のお寺から覚心(法燈国師)という名の僧によって、和歌山県の由良にある臨済宗 鷲峰山興国寺に伝えられました。
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● 金山寺味噌の食べ方・使い方
金山寺味噌の特徴は、野菜の旨みが引き出され、甘みと塩味、深みのある香りの良い味噌です。
レシピと言うか、食べ方としては、ご飯のお供やお粥、酒の肴、もろきゅう、チーズのトッピングなどにおすすめ です。 もろみ味噌に似ていますが、やはり野菜が入っているので、具を選ぶ楽しみや食感を楽しめる味噌で、紀州では茶粥のお供に昔から食べられている伝統食です。
<金山寺味噌の食べ方>
〜〜年以上、金山寺味噌を作り続けている湯浅醤油、丸新本家がおすすめする金山寺味噌の食べ方をお伝えいたします。
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1) ご飯のお供に野菜の旨味とほどよい塩気がたまらない金山寺味噌。 |
2)お粥に乗せるご飯のお供と同じくらいおすすめするのが、お粥に乗せる。 |
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3)お酒の肴におすすめそして何といっても、お酒の肴におすすめです!和歌山県で最強とも言えるお酒のつまみ、金山寺味噌。 |
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4)もろきゅうもろきゅうといえば、お酒好きには最強のおつまみ、という方も多いはず。 |
5)チーズ意外とチーズとの相性もよい金山寺味噌。 |
1) ご飯のお供に |
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野菜の旨味とほどよい塩気がたまらない金山寺味噌。
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2)お粥に乗せる |
ご飯のお供と同じくらいおすすめするのが、お粥に乗せる。
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3)お酒の肴におすすめ |
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そして何といっても、お酒の肴におすすめです!和歌山県で最強とも言えるお酒のつまみ、金山寺味噌。
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4)もろきゅう |
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そして何といっても、お酒の肴におすすめです!和歌山県で最強とも言えるお酒のつまみ、金山寺味噌。
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5)チーズ |
意外とチーズとの相性もよい金山寺味噌。
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紀州金山寺味噌が和歌山県で初めてGI(地理的表示)認定を受けました |
2017年8月、「紀州金山寺味噌」が地理的表示(GI:Geographical Indication)保護制度に和歌山県の産品として初めて登録されました(全国では39番目の登録。「味噌」の登録は全国初)。登録生産者団体は紀州味噌工業協同組合。
GIマークは、世界的には、シャンパンやパルマハム、神戸ビーフや八丁味噌など、地域で長年育まれた伝統と特性を有し、その品質等の特性が生産地と結びついている農林水産物や食品の名称を、知的財産として保護するものです。
おかず味噌と呼ばれる金山寺味噌と日本の醤油の起源について、その歴史的背景と現在をお伝えします。
金山寺味噌とはその名からも想像できるように、金山寺(正しくは鎮江府金山竜遊江寺)という中国の宋の時代のお寺から覚心(法燈国師)という名の僧によって、和歌山県の由良にある臨済宗 鷲峰山興国寺に伝えられました。
この覚心和尚とはどんな人なのでしょうか。
覚心の生まれは、今の長野県松本市の豪族と呼ばれる力のある家の子として誕生しました。
また彼は、座禅を組んで悟りをひらく禅宗で名高い臨済宗の高僧でもありました。
彼は、15歳で天台宗の厳殿寺に修学し、19歳であの有名な東大寺に学び、 そして真言密教を三輪寺で学んだ後に高野山に登りました。 高野山に登った覚心が、なぜ和歌山県由良の興国寺なのか。
それには悲しくも情に溢れた歴史が隠されています。
鎌倉時代、三代将軍・源実朝が、甥・公暁に鶴岡八幡宮で殺されました。

その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢であった宋へ渡る船の準備を由良の港で行っていました。
主人の死を知り葛山は、その苦堤をとむらうため高野山に入ります。その時に知り合ったのが若い覚心でした。
故主人・実朝の供養の様子を聞いた当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え、一寺を建てたのです。
これが興国寺の始まりです。
しかし、葛山は次第に主人・実朝がずっと憧れ続けていた宋の国に実朝の遺骨の半分を納めたいと思うようになります。年老いた葛山の宿願をはたしてくれたのが、覚心でした。
覚心が宋に渡り、中国5大禅寺のひとつである径山寺(興聖万寿禅寺)に赴き、
他の寺でも中国で通算約5年修行し、その間に実朝の遺骨を広利禅寺に納め、
金山寺味噌の製法と四人の宋の人をつれて由良の興国寺に帰ってきました。
その後、覚心は、葛山からその才を見込まれて興国寺の住職となり、
後に、亀山上皇、後醍醐天皇より法燈禅師、法燈円明国師と贈り名されました。
金山寺味噌のたまりが醤油の元祖といわれているので、本来なら、由良が醤油発祥の地となるはずがなぜ、少し離れた山漁村の湯浅が醤油発祥の地といわれているのでしょうか。
まずは、由良と湯浅との地理的な距離をご説明します。
由良町は、和歌山県の日高という所にある港町で、ちょうど和歌山市と白浜との中間点位で、平地が少なく、山ぶかい所です。
一方、湯浅町は、主に漁村として栄えていた町で、由良の北にある隣町になります。
湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る町です。
交通上重要な位置にあった湯浅だからこそ、醤油の町として発展し、近世に入り次第に商業都市として発展しました。
そして、白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、
南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から、「重要伝統 的建造物群保存地区」に選定されました。
醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく 残す貴重なものと認められ、街歩きの観光スポットとなっています。
鎌倉時代、興国寺では、野菜と大豆から作られる金山寺味噌を栄養食、健康食として盛んに作られましたが、
たまたま湯浅の水が味噌を作るのに適していたため、すぐにその製法が湯浅に広まったのです。
金山寺味噌を作る段階で野菜から出る余分な水分が、カビの腐る原因になるとしてそれまで捨てられていました。
ところが、この汁を調味料として使ってみると以外にも美味しかったので、
始めから、醤油を作るつもりで味噌を仕込むことが湯浅で行われるようになり、改良を重ねて今の醤油になりました。
湯浅から、醤油が商品として出荷されたのは、今から約400年前の安土・桃山時代の文献に記されているそうです。
その後、徳川御三家紀州藩の保護のもと藩の専売制も手伝って、
文化・文政の時には1000戸の湯浅町に約92件もの醤油屋があったとされています。
享保の改革で有名な享保年間には、湯浅の人々が今の房総半島に渡り、銚子に出かけ、醤油の生産を始めています。
そのなごりとして、その半島の地名には和歌山の地名と同じ所があります。
また、全国から醤油づくりを習いにやって来て、各地で醤油づくりが広がっていったことも文献に残っています。
現在、湯浅町には造り醤油のお店は数軒残されているだけですが、湯浅の名を全国に知らしめ、
伝統産業である醤油造りや金山寺味噌造りは、今の本物を求める時代のニーズに応えられる物と言えるのではないでしょうか。
丸新本家は、この醤油の元祖といわれる金山寺味噌のたまりを再現した唯一の蔵元です。
野菜の旨みや栄養が凝縮した『金山寺たまり 九曜むらさき』は、塩分を13%にまでひかえ、塩辛くなくさらっとしたたまり醤油です。
2006年から毎年連続モンドセレクションにおいて、10年間最高金賞を受賞し、高品質商品として世界でも認められました。
お刺身以外にも、漬物や冷奴等かけ醤油としてお使いください。和風ステーキなどのお肉料理なんかにも合うと評判です。
是非、ご賞味ください。
社長ブログに詳しい記載があります。
こちらもご覧下さい。
https://ameblo.jp/yuasasyouyu/entry-12396789318.html