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歴史

●湯浅しょうゆと金山寺味噌の歴史
寺おかず味噌と呼ばれる金山寺味噌と日本の醤油の起源について、その歴史的背景と現在をお教えします。
そもそも、金山寺味噌とはその名からも想像できるように、金山寺(正しくは鎮江府金山竜遊江寺)という中国の宋の時代のお寺から覚心(法燈国師)という名の僧によって、和歌山県の由良にある臨済宗鷲峰山興国寺に伝えられました。
この覚心和尚とはどんなひとなのでしょうか。覚心和尚の生まれは、今の長野県松本市の豪族と呼ばれる力のある家の子として誕生しました。また彼は、座禅を組んで悟りをひらく禅宗で名高い臨済宗の高僧でもありました。彼は、15歳で天台宗の厳殿寺に修学し、19歳であの有名な東大寺に学び、そして真言密教を三輪寺で学んだ後に高野山に登りました。 高野山に登った覚心和尚が、なぜ和歌山県由良の興国寺なのか。
それには悲しくも情に溢れた歴史が隠されていたのです
時は、鎌倉時代までさかのぼります。鎌倉三代将軍・実朝が、甥・公暁に鶴岡八幡宮で殺されたことは、あまりに有名 です。その時、実朝の忠臣・葛山五郎は、君主のかねてよりの夢である宋へ渡る船の準備を由良の港で行っていたのです。 主人の死を知り葛山は、その苦堤をとむらうため高野山に入ります。その時に知り合ったのが若い覚心であったことは云うまでもありません。寺
故主人・実朝のひたすらな供養ぶりを聞いた当時の尼将軍・北条政子は、葛山にその供養料として由良の地を与え、一寺を建てたのです。これが興国寺の始まりです。
 しかし、葛山は次第に主人・実朝が生まれてからずっと憧れ続けていた宋の国に遺骨の半分を納めたいと思うようになります。年老いた葛山の宿願をはたしてくれたのが、覚心だったのです。覚心が宋に渡って約5年、その間に実朝の遺骨を広利禅寺に納め、やがて、味噌の製法と四人の宋の人をつれて由良の興国寺に帰ってきました。その後、覚心は、葛山からその才を見込まれて興国寺の住職となったのです。
湯浅 地図 本来なら、由良が醤油発祥の地となるはずがなぜ、少し離れた山漁村の湯浅が醤油発祥の地といわれているのか。そのなぞを、ひもときたいと思います。
その前に、由良と湯浅との地理的な距離を大まかに云いますと、由良町は、和歌山県の日高という所にある港町で、ちょうど和歌山市と白浜との中間点位で、平地が少なく、山ぶかい所です。一方、湯浅町は、主に漁村として栄えていた町で、和歌山市寄りで由良のとなりになります。では、少し由良と湯浅の位置がつかめたところで醤油発祥の地といわれる理由についてお教えします。
時代は、また鎌倉までさかのぼります。興国寺では、野菜と大豆から作られる金山寺味噌は健康食品として盛んに作られ、たまたま湯浅の水が味噌を作るのに適していたため、すぐにその製法が広まったのです。それを作る段階で野菜から出る余分な水分が、カビの腐る原因になるとしてそれまで捨てられていました。ところが、この汁を調味料として使ってみると以外にも美味しかったので、始めから、醤油を作るつもりで味噌を仕込むことが次第に行われ、改良を重ねて今の醤油になったのです。寺
湯浅から、醤油が商品として出荷されたのは、今から約400年前の安土・桃山時代まで文献に記されています。その後、徳川御三家紀州藩の保護のもと藩の専売制も手伝って文化・文政の時には1000戸の湯浅町に約92件もの醤油屋があったとされています。
 享保の改革で有名な享保年間には湯浅の人々が今の房総半島に渡り、銚子に出かけ、醤油の製産を始めています。そのなごりとして、その半島の地名には和歌山の地名と同じ所があるのです。現在、湯浅町には造り醤油のお店は、少なくなっていますが、湯浅の名を全国に知らしめ、伝統産業としてたしかな足跡をしるしてきた醤油造りや金山寺味噌造りは、今の本物を求める時代のニーズに応えられる物と言えるのではないでしょうか。
湯浅しょうゆ丸新本家は、この醤油の元祖といわれる金山寺味噌のたまりを再現した唯一の蔵元です。野菜の旨みや栄養が凝縮した『金山寺たまり 九曜むらさき』は、塩分を13%にまでひかえ、塩辛くなくさらっとしたたまり醤油です。2006年から毎年連続モンドセレクションにおいて、最高金賞を受賞し、高品質商品として世界でも認められました。お刺身以外にも、漬物や冷奴等かけ醤油としてお使いください。和風ステーキなどのお肉料理なんかにも合うと評判です。是非、ご賞味ください。

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