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丸新本家の歴史物語

丸新本家の創業は明治14年。

スミばあちゃん(左)

今の5代目・新古敏朗からすると、ひーばあちゃんになる『スミばあちゃん』が商売を始めたといわれています。そうすると今4代目なのでは?と思われますが、そうではないのです。

スミばあちゃんは、湯浅町の鍛冶屋町という、現在の伝統的建造物群保存地区にある家の、新古新吉という当時大工をしていた男の家に嫁にきました。

スミは、当初日用品を売っていましたが、『何かいいものはないか?』と考えていたスミは、実家で作っていた金山寺味噌を売ることを思いつき、実家から分けてもらって販売を始めたところ、大変評判になったそうです。

というのも、スミの実家の母が、『金山寺味噌づくりの名人』だったからです。『これはいける!』と思ったスミは、実家の母に教えてもらって、自分でも造り始めました。そして、作ったら飛ぶように売れ始め、本格的に商売として製造を始めたのです。ですから、スミは2代目ということなのです。

昔の看板と商品

スミと新吉は、湯浅町の南浜町に移り住みます。家は大工の新吉が建てた、すごく立派な家でした。大きな梁がむき出しで、格子の窓、天井がものすごく高くて、店の奥には土間があり、応接と座敷があり、その奥には台所、中庭の奥には蔵と工場。本当に奥に深い、昔の町屋です。土間の上にはロープで開閉できる天窓があり、それを開け閉めしてよく遊んだものです。お風呂は五右衛門風呂。もちろん、下から火をくべて沸かすのです。とにかく、迷路のような家でした。

当時、商売をしている店が3件並んでいた真ん中の店だったので、『新古商店』ですが、通称 『中店』 と呼ばれていました。スミは、そこで、家庭用に醤油を造っていましたが、本格的に販売用に醤油も造り始めました。新吉は醤油を炊く薪が要るからと、山を1つ買い、娘達に薪拾いをさせ、娘達に醤油炊きをさせたそうです。

どれだけの醤油を製造してたんでしょうか???よく分からないのが残念です。スミは、新吉が早くに亡くなったので、女で一つで2人の息子と5人の娘を育てていましたが、その後を継いだのが長男の勇太郎・3代目です。3代目は、店名を『味の屋 丸新』と付け、皆さんから『丸新さん』と呼ばれるようになりました。

戦争中、軍に味噌や醤油、漬物を販売していた為、食べ物が配給され、幸いにも食べ物のない時代に食べ物に困らなかったので、疎開してきた人達が30人位いて、皆で住んでいたそうです。勇太郎の嫁の絹は、皆のお風呂が済んで最後に入ったので、夜中の3時になったと言っていました。戦時中は皆本当に大変だったでしょうね〜。特に、その時代の嫁は・・・私は戦争のない時代に生まれ、本当に良かった ^^;

昔の店舗内の様子

さて、終戦後、醤油・味噌業界は本当に皆どこもダメだったそうです。そして、昭和21年の昭和南海地震が湯浅の町を襲いました。醤油は皆棚から落ちて割れ、津波をさけ皆山の方に逃げたそうですが、港町の湯浅は大きな被害にあいました。勇太郎は、心臓が悪く、早くから後を継いだのが、4代目の新古正義

まだ若い20代の正義が、金山寺味噌のたまりを入れた醤油、今の『九曜むらさき』の元祖を作って販売していました。しかし、4代目の正義は、醤油造りを一旦やめてしまいます。人手と手間がかかる醤油、しかも製品になるまで1年半から2年もかかります。採算が合わないと思い、思い切って金山寺味噌を中心に、規模を拡大しようと工場を改良し、仕込み量を倍にしました。しかし、これでも金山寺味噌は人気で、生産が追いつかなかったのです。「増産するには道が狭い浜町にいてはいけない」と、現在の国道42号線沿いに土地を買い、まず工場を建てました。それが、昭和57年のこと。

昭和60年(1985年)、現在の国道沿いの木造の店を建てました。そして、社名を『新古商店』から、今の『丸新本家』に変更しました。この店がお城のようだと評判で、それからまた商品が売れるようになりました。

金山時味噌3種

正義は、他の金山寺味噌屋さんが保存料や人工甘味料などを使用し始めても、決してそれらを使うことなく、独自の研究でこれまで誰も作ったことがなかった金山寺味噌のうす塩味を5年の歳月をかけて開発しました。塩分4.8%というのは、現在でも画期的で、しかも、保存料などを使用することなく、真空包装に出来る技術はものすごく難しいのですが、これに成功☆。

種類も昔ながらの金山寺味噌だけから、うす塩味金山寺味噌うす塩味わかめ金山寺オリーブ金山寺ゆず金山寺梅金山寺、わさび金山寺、もろみしょうゆもろみと色々な種類の金山寺味噌を発売しました。おそらく日本一の品揃えだと思います。

味噌も、白みそ赤みそあわせ味噌赤だし(塩分8%)丹波黒豆みそうす塩白みそ(塩分半分の5%)、いずれもものずごくこだわって造り、ファンになって頂いているお客様もたくさんついてくれています。

平成2年、5代目敏朗が家業を手伝うようになりました。設備も大型にし、さらに増産できるようになり、現在の『金山寺たまり 九曜むらさき』も開発し、発売を始めるようになりました。続いて、ゆずぽん酢湯浅たまり も製造・販売を開始。梅干も、しそ漬けのすっぱいものだけだったものから、うす塩ではちみつを少し加えた『徳寿梅』をみなべの契約農家さんの南高梅を使用して漬けるようになり、梅にも本格的に取り組むようになりました。平成14年(2002年)1月、湯浅醤油有限会社を5代目新古敏朗が立ち上げ、九曜蔵を建て、本格的に醤油の製造に取り組むようになる

木の味噌樽

5代目は、『ただ醤油屋をするのではなく、先人が築き上げてきた醤油造り、その後ろで息づく伝統技術というか、その想いや意志を伝えていきたいからと、分かりやすい名前の湯浅醤油襪砲靴拭戮箸いい泙后4歐靴箸いμ樵阿付いていないことを、反対されたり、日本中で昔ながらの醤油屋が廃業している中、あえて醤油屋をすること自体に反対の声がたくさんあったのは事実です。

2003年から、丹波黒豆を使用した『生一本黒豆醤油』を発売し始めました。従来の醤油の造り方とは全く違う製法で、材料を吟味し、徹底してこだわって造りました。

生一本とは、混ぜ物をしないという意味です。そして、良いものが出来ました。しかし、『高すぎる!』、と不評でなかなか売れません。時々、すごい料理人さんが使ってくれているとか、噂は耳にすることはありましたが、実際は苦難の日々が続きました。しかし、2005年5月、生一本黒豆が読売テレビの人気番組『どっちの料理ショー』の特選素材として紹介されました。

生一本は爆発的に売れ始めました。そして、引き続きその年の5月、初めて申請を出していたモンド・セレクションの結果が出たのです。  

生一本黒豆 金賞、  九曜むらさき 金賞  金山寺味噌  銀賞ちょうどサントリーさんのプレミアムモルツが最高金賞をとった初年と同じ年。またまたメディアに取り上げられ、話題となりました。2006年から2014年まで、おかげさまで連続で、  生一本黒豆  最高金賞  九曜むらさき  最高金賞を受賞しています。とても光栄なことです。ゆずぽん酢も、2008年から2014年まで連続で金賞を頂いております。最近は、ヨーロッパの星付きレストランのシェフが蔵まで買い付けに来る程、高い評価を頂いております。ヨーロッパのシェフの醤油の使い方は、日本人のそれとは全く違い、醤油を味・香り・色の3つに分解して見て、使用しているということです。

『醤油が勝ちすぎない、邪魔をしない、素材本来が持っている旨味を引き上げてくれるから素晴らし』と高い評価を頂きました。そして、テレビで生一本を使用してくれた日本料理人に教えてもらったのですが、『醤油は熱を加えて煮詰めれば煮詰める程、イヤな匂いがしてくるけど、この醤油にはそれが全く無い。どんなに料理をしても味が安定している。』とお褒めの言葉を頂きました。

こだわり抜いている商品づくり、喜んでいただけるお客様の声がある限り、これからも変わらず造り続けていきたいと思います。また、2006年、5代目の遊び心から作ったカレーにかける醤油『洋食屋さんのカレー醤油』が注目されるようになり、湯浅醤油襪肋しずつ地元の人にも知ってもらう存在となりました。

100年企業の表彰

2005年から5代目は、地元湯浅町の山田小学校でボランティア講師として、食育の一環として、醤油づくりを教えています。土地を耕し、種を上、豆を育て、収穫し、それから醤油を作る。しかも、児童一人一人が管理するPETボトルで作る『マイ醤油造り』を指導しています。今やその運動は、湯浅町のすべての小学校にまで広がり、醤油発祥地・湯浅ならではの文化を子供達に教えています。

昔は、和歌山県で3本の指に入る程にぎわっていた湯浅の町は、残念ながら今やその面影も薄れつつあります。未来を担う子供達に、また、湯浅の町に、醤油の文化を通して、もっともっといろんな形で貢献していきたいと思います。長々読んで頂き、ありがとうございますm(_ _)mこれからも、よろしくお願いします。

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